重症、つける薬なし
平日昼間の吾野駅。
ホームに立った西武秩父は、自分と同じ名前の駅へと向かう車両を見送った。
車両の姿が見えなくなる頃には、降車したお客様も改札へと消え、人影はまばらになる。
そんな中、ふっと視界をかすめる見慣れた青に、西武秩父は顔をあげた。
「池袋」
思わずというように漏れた声には、少し驚いた響きが混じっている。
西武秩父の視線の先に立っているのは、西武のメインラインである池袋。
吾野は池袋線の終点であるし、ここから先の直通運転もあるのだから、池袋がこの場にいるのは何もおかしいことではない。
しかし、今日は池袋駅方面に詰める予定だと、朝の連絡で本人から聞いている。
何か急ぎの用事でもできたのだろうか、と西武秩父は慌てて池袋の傍へと駆けよった。
「何かあったのか?」
真剣な面持ちで聞く西武秩父に、池袋の露わにされている右目がほんの少し見開かれる。
「いや、そう重大なことでもない…少し目を通して欲しい書類があってな」
「ああ、なんだ」
ほっとした、と言うように、西武秩父はくしゃりと顔いっぱいに笑う。
快活なその笑顔につられるように、池袋もクスリと顔を緩めた。
「それで、この書類なのだが…」
ファイルから書類を取り出そうと、池袋は手元へと視線を下ろす。
二人が立って並べば、身長差分だけ西武秩父が池袋を見下ろすことになる。
いつものことながら少し居心地の悪い思いをしつつ、西武秩父はじっと池袋の行動を待った。
うつむき気味になる顔に合わせて、長く伸びた前髪がさらりと落ちる。
襟元と髪とのわずかな隙間に、傾いだ首元があらわになった。
普段は見慣れないその白さに、西武秩父の視線はつられるようにそちらへと移動する。
そして、そこに見つけた小さな違和感に、思わず声を漏らした。
「あ」
まずい、と思った時には、もう遅く。
「……なんだ?」
声に反応して顔をあげた池袋がまっすぐ西武秩父を見る。
なかなか答えない西武秩父に、池袋はみるみる怪訝そうな表情になった。
「えーっと、あーうー…」
中途半端に上げた手で口元を隠しながら言葉を濁す西武秩父に、その視線は険を帯びてくる。
機嫌を損ねたその表情に慌てながら、西武秩父の視線は池袋の顔の動きに合わせて揺れる髪につい集中してしまった。
正確には、髪先が撫でている白い首筋、そこに映える赤い跡に。
「……あぁ」
どんどんと深くなるばかりだった池袋の眉間の皺が不意にほどけた。
西武秩父の視線の意味に気付いたのだろう、自分には見えない首元をそっと手で押さえる。
隠された赤に、西武秩父もようやく泳ぐばかりだった視線を落ち着かせることができた。
いくら他の同僚らと比べて若い路線とはいえ、その跡が示す意味に気付かないほど、西武秩父は子供ではない。
ただ、普段は色恋の匂いなどさせない同僚の見慣れない姿、その生々しさに西武秩父は動揺したのだ。
「……まぁ、気にするな」
なんといっていいかわからず沈黙する西武秩父に、池袋はひとつ吐息をついてそう呟いた。
首を押さえていた手で軽く襟元をただし、何事もなかったかのように仕事の話を再開する。
しれっと真顔で話し続ける池袋に、西武秩父はさらに困惑した。
気にするな、と言われても、一度見てしまったものを今さら見ていない振りをするのは難しい。
おざなりに引き寄せられた制服で隠しきれていない赤い跡は、西武秩父の目の前で依然として存在を主張しているのだ。
なにより、その跡を残していった人物の顔に見当がつくものだから尚更いたたまれない。
西武池袋がよりにもよって他社の路線と付き合っているのは、割合に誰もが知っている事実だ。
当人ともに表だってそれを主張することは少ないからこそあまり気にせずにすんでいるとはいえ、それをはじめて知った時の衝撃を西武秩父は今でも覚えている。
「―――今話した事はこの書類にまとめてある、後で確認するように」
すい、と目の前に差し出された紙に、西武秩父はハッと意識を引き戻した。
ぐるぐると思考を巡らせていたせいで、池袋の話は半分も頭に入ってきていない。
とっさにその書類を受け取っても、西武秩父はいまだ平静を取り戻せずにいた。
「それではな」
対する池袋は少しも顔色を変えないまま、くるりと向きを変えて西武秩父から離れていく。
気がついてみれば先ほど車両を見送った反対側に、今度は飯能方面行きの列車がやってくる気配がした。
「い、池袋!」
入線してきた車両の連れてきた風に髪を乱されながら、西武秩父は思わずその背中に声をかけた。
騒がしい音の混じるホームでその声は届かないかと思いきや、西武池袋は歩みを止めてゆっくりと振り返る。
西武の証の金の髪がふわりと浮いて、一瞬だけ髪と同じ色をした両の目が西武秩父を捉えた。
ばくばくと妙に高鳴る心臓の音を聞きながら、西武秩父はその視線をまっすぐに受ける。
池袋が他社の路線と恋仲であることを初めて知った時、西武秩父は反発するでも否定するでもなく、ただただ不思議でしかなかった。
今日こうしてそれが事実であると見せつけられても、感じるのは強烈な違和感。
自分たちの中で誰よりも愛社精神の強いこのメインラインが―――というより、「西武池袋」が「会長」以外の誰かに心を許すとは思えなかったのだ。
「……どうして、あいつと付き合おうと思ったんだ?」
西武秩父の静かな問いに、池袋はほんの少し目を見開いた。
今日初めて崩れた池袋の表情を前に、西武秩父は緊張しながら返答を待つ。
じっと自分を見つめる西武秩父の視線に、池袋は考え込むように一瞬目をつむった。
少しの沈黙の後、その口元がゆっくりと開く。
「……仕方あるまい?」
「へ?」
返ってきた返事は予想外に楽しげな声音で、西武秩父は思わず間抜けな声を漏らした。
見返した池袋の表情は、今までに見たことがないほど優しい笑みを浮かべていて。
「気がついた時には、落ちてしまっていたのだから」
それだけ言い残して池袋はするりとその身をひるがえした。
池袋が車両に乗り込んだ瞬間、それを待っていたかのように発車の合図が鳴る。
ゆっくりと動き出す車両の姿を茫然と見送りながら、西武秩父は耳に届いた答えを反芻していた。
「……落ちたって……」
一体何に?と思う反面、西武秩父の頭には有名すぎていっそ陳腐な慣用句がよぎっていた。
つまりは、Fall in love―――恋に、落ちる。
「うわあああっ!」
たまりかねた西武秩父は、思わずその場にしゃがみこんだ。
鮮やかな情事の跡を見せつけられるより、今聞いてしまった言葉の方がずっとダメージが大きい。
「恥ずかしい……っ!!」
恥ずかしい事を言ったはずの本人よりも、聞かされた方が恥ずかしいのは何故なのだろう。
その場で転げ回りたくなるような衝動を抑えながら、西武秩父はしばらくその場から立ち上がれずにいた。
自分たちのメインラインは、あんなことを言うような男だっただろうか。
あんな顔で、笑うような奴だっただろうか。
「……ふふ、はははっ!」
そこまで考えて、西武秩父は思わず声に出して笑った。
質問を投げかけるのに、あんなに緊張していた自分が馬鹿馬鹿しい。
ずっとわだかまりを持っていた疑問に返ってきたのは、なんとただののろけだった。
なんという馬鹿馬鹿しさ。
それでも。
あんな風に笑えるなら、それもいいのかもしれない。
「あー俺も恋したらわかるのかなー」
なんとなく宙を仰いでみれば、目の前に広がるのは雲ひとつない晴天。
その眩しさに目を細めながら、西武秩父は不思議にすっきりとした気持ちで空を見上げた。
お題配布元:リライト