メロディ


「聞け、営団」
「いや、今はメトロだから」
もはやお決まりの台詞と化した有楽町の言葉は、いつも通り綺麗に無視された。
話しかけてきた当人である西武池袋は、返事など必要ないとでも言うように、自分の話を進めている。
自信満々の笑みに、手にはなにやらビニール包装された小物。
これはまた何か新しいグッズでも作ったのだろうか。
反応に困るような物でないことを祈りながら、有楽町は池袋の話に相槌をうち、時々突っ込みを入れる。

こうして池袋が唐突に有楽町に話を持ちかけてくるのは、そう珍しいことではない。
よくある自社自慢だったり、新製品のお披露目だったり、一度など何故か会議にひっぱりこまれたことさえある。
そんな数々の迷惑行為といって差し支えない池袋の行動を、有楽町はほんの少し困った顔をしながらも、けして断ったりはしなかった。
基本的に人の話を聞かない相手に付き合うのは、多少、いや、大分疲れるものがある。
慣れない頃には、もういっそ乗り入れをやめてしまおうかなんて考えたことも。
それが今、なんだかんだ言いながら池袋の行動に付き合っていられるのは何故か。
もちろん、慣れというのもある。
けれど、それ以上に、きっとあの時の出来事が決定的だったのだろう、と有楽町は思う。
まだ西武池袋という路線のあり方を自分が理解できていなかった頃。
自分のした、取り返しのつかない失言。
そう言えば、あの時も今と同じような状況だったような。
そんなことを思いながら、有楽町はぼんやりと記憶を呼び起こした。



その日も、特別変わったことがあったわけではなかった。
池袋がひたすら自社を褒め称えるのは、いつも通りのことでしかない。
普段なら、ああまたか、と思いながら、遠い目をしてその場をやり過ごす。
それができなかったのは、たまたま有楽町の心にゆとりのない時だったとか、積もり積もったストレスが爆発してとか、そんな理由が考えられるけれど。
結局は、言わなかっただけで、常に心のどこかで思っていたのだろう。
熱のこもった瞳で、賛美の言葉を口にする池袋。
それが結局誰に向けられていて、その思いは決して報われるような性質のものではないと知っていたから。
だから、つい、言ってしまったのだ。

「お前、それで幸せなの?」

口をついて出た言葉は、まるで吐き捨てるよう。
あまりに辛辣なその響きに、口にした本人である有楽町が一番驚いた。
ざぁっと、頭から血の気が引く音がする。
言ってはいけないことを口にしてしまった、と有楽町は自分の失敗を即座に悟った。
「い…っ!」
謝罪の言葉を口にしようと慌てて顔をあげる。
けれど、呼びかけようとした名前も言い切ることができないまま、有楽町はその場で固まった。
視線の先の池袋の表情は、有楽町の想像していた、そのどれでもなかった。
柳眉を逆立てて怒りを露わにするでもなく、言葉に傷ついて涙を流すでもない。
感情を一切取り払ったような、ただひたすらの無表情。
その底知れない恐ろしさに、有楽町の肌はぞわりと逆立った。
「いけ、ぶくろ…」
震える声音で、なんとか名前を呼ぶのが精一杯。
見つめる視線を外すこともできない。
そんな有楽町の前で、池袋はゆっくりと口を開いた。
「……わたしが、不幸だと?」
感情の色のない呟きが、部屋の空気をピリッと震わせる。
次いで、薄く開いた唇の端がわずかに吊り上がった。
「不幸とはなんだ」
「え…?」
唐突に向けられた質問に、有楽町はびくりと肩を震わせる。
混乱した思考回路は、問われた言葉をうまく飲み込んでくれない。
元々答えを必要としていなかったのか、有楽町の返事を待たずに、池袋は言葉を続けた。
「事故が起こることか?お客様がいなくなることか?それとも、走れなくなることか?」
よどみなく話す池袋の声は、有楽町には聞いたことのないものだった。
馬鹿にするような嫌味のきいた声でもなく、興奮したような陶酔の響きもなく。
ひたすらに冷静で、平坦。
「わたしは今、走ることができる。必要とされている。――――あの人の言葉が、ある」
「……………」
「だから、わたしは不幸ではない」
言い切るように告げられた言葉に、有楽町は何も言うことができなかった。
まっすぐ向けられた視線を、どうすることもできずに、ただ見つめ返す。
しばらく続いたその膠着状態を、断ち切ったのは池袋だった。
「……口が過ぎた。わたしはもう行く」
そう言って、静かに部屋を出ていく池袋を止めることなどできるはずもない。
まっすぐに伸びた背中がドアの向こうへと消え、有楽町は一人部屋の中に残される。
シンと静まりかえった空気の中、顔を手で覆って、ゆっくりと息を吸い込んだ。
襲いかかる後悔の念に、背中が情けなく丸まる。
自分の言葉は言ってはならない類のものだった、それははっきりと理解している。
なのに、後悔以上に、ふつふつと胸に湧き上がるこの衝動はなんだろう。
「………違うだろ…っ」
肺いっぱいに吸い込んだ空気と一緒に、有楽町は言えなかった言葉を小さく吐き捨てた。
自分は不幸ではない、と池袋は言った。
けれど。
「不幸じゃないってのは、幸せだってことにはならないだろ……!」
閉じた瞼の向こうに、まだ池袋の顔が焼きついている。
全てを塗り固めたような、あるいは、何もかも捨て去ってしまったような、そんな表情。
「幸せ」なんて言葉を口にすること自体、滑稽に思えてしまうくらいの。
「………っ!」
苛立ち任せにこぶしで叩いたテーブルが、渇いた音を立てて軋む。
罪悪感に打ちのめされても、その時の有楽町にできることは何もなかった。



「……ん、営団、有楽町!」
「へ?」
呼ばれた自分の名に、有楽町はハッと我に返った。
目の前には、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた池袋の顔。
「人の話を聞いていたのか、貴様は!」
「あ、ああ、ごめん」
強い叱責の声に、まだぼんやりとしたまま謝罪の言葉を口にする。
どうやら、池袋の話を聞きながら、半分上の空になっていたらしい。
「まったく!話の途中でボケッとしおって、精神がたるんでいる証拠だ!」
「ああ、もう悪かったって!」
声高に文句を並べる池袋に、有楽町はただただ謝るしかない。

あの後。
有楽町は、自分の失敗が池袋との関係に多少なりと影響を与えるだろうと、それなりの覚悟を決めていた。
元々スムーズとは言えなかった付き合いがこれまで以上に悪くなるかもしれないし、あるいは、まったく無視されても仕方ない。
けれど、有楽町の心配は全て杞憂に終わった。
次に出会った時、池袋の有楽町への態度は、それまでとまったく変わらないものだったからだ。
戸惑う有楽町を気にせず、人の話を無視して、傍迷惑な愛社精神をまき散らす。
まったくいつも通りの池袋だった。
その態度に最初は戸惑った有楽町も、ほどなく、あの時の出来事はなかったことにすることに決めた。
自らの失敗を蒸し返さずにいられるなら、と甘えてしまった部分も少なからずある。
けれどそれ以上に、何事もなかったように振舞う池袋の態度は、安易な謝罪を拒んでいるように思えたのだ。
あれからずっと、池袋はあの日の出来事について触れることはない。
有楽町もまた、自分の失敗を忘れたふりで、こうして池袋と話している。

「まあ、我が社の素晴らしさが営団風情に理解できずとも仕方あるまい!」
新商品の自慢だったはずの池袋の口上は、いつの間にか、聞き覚えのある自社賛美のものへと変わりつつあった。
うっとりと陶酔した声音で語られる、会社とそしてある一人を称えたきらびやかな言葉たち。
昔はこれを聞く度に、チクリと神経に刺がささる思いがしたものだ、と有楽町は思う。
今はもう、池袋の言葉を聞いて、刺がささることはない。
「……営団?」
黙ったまま何も言い返さない有楽町に、ひたすら自分の話をまくしたてていた池袋も不審に思ったらしい。
どこか遠くへと飛んでいた池袋の視線が、有楽町の方へと向けられる。
その視線を受け止めて、有楽町はゆっくりと口を開いた。
「聞いてるよ」
あの日、有楽町が感じたのは、池袋への憐れみと、それをどうにもできない自分への苛立ち。
どちらにしてもそれは、身勝手で独りよがりのものでしかなかったと、今ならわかる。
それでも、あの日、地雷を踏んだ有楽町を、池袋は遠ざけることはしなかった。
目的が何であれ、自分から有楽町の元へやって来てくれる。
それが、有楽町には救われそうな程に嬉しい。
「ちゃんと、聞いてる」
念を押すように言葉を重ねて、有楽町はにこりと笑う。
池袋の在り方を、有楽町はきっと完全に理解することなどできない。
それでも、こうして顔を合わせて話をすることを許してくれるなら、いくらでも話を聞いてやろうと思うのだ。
「………フン」
静かに笑う有楽町に、池袋は何か言いたげに口を開いて、けれど、途中でふいとその視線をそらした。
それから、至極おもしろくなさそうに吐息を漏らす。
なんだか拗ねたようなその響きに、有楽町はまた小さく笑った。



サイト掲載:10/04/20