millions of kiss


所属の違う恋人と共に時間を過ごすためには、それなりの努力が必要になる。
もちろん顔を合わせるだけならば、それほど難しいことではない。
乗り入れや共通の駅、あるいは、業務上の連絡など、機会はいくらでもある。
けれど、有楽町が望んでいるのは、恋人として過ごす二人きりの時間だ。
あらかじめ約束をしていても、お互いに忙しく、タイミングが合わないこともしょっちゅうで。
二人きりで過ごせる時間は、有楽町にとってとても貴重な一時だった。
その日も、何度か約束が流れた後の、久しぶりにお互いの時間が合った夜。
顔見知りの路線の少ない、けれど、自分たちの仕事場から遠すぎもしない微妙な場所を選んで、有楽町は池袋をホテルへと連れ込んだ。
「ゆ、…!」
部屋の扉を閉めたのと同時に、少し乱暴に池袋の身体を引き寄せる。
驚いた声を上げる池袋を、ただ黙って、背中から抱きしめた。
恋人としての時間というものが、身体を重ねることだけにあるとは、有楽町も思わない。
けれど同時に、好きであればあるほど、触れたくてたまらなくなるのも事実で。
「有楽町…っ、待て…!」
抱きしめる力を強くする有楽町を振り切ろうと、池袋は身体をねじってゆるく抵抗する。
首をひねってこちらを睨む顔を、有楽町は片手を頬に寄せて引き寄せた。
そのまま、薄く開いた唇に口づける。
「…っ!」
唇を合わせた瞬間、反射的にか池袋の瞳がぎゅっと閉じられた。
目を開けたままだった有楽町は、間近で見たその光景にほんの少し微笑む。
押し付けた唇を離さないまま、池袋の後頭部へと移動させた手をそっと上下させた。
手指の間をすり抜けた金色の髪が、くしゃりと微かな音を立てる。
「んんっ!」
しばらくその手触りを楽しんでいると、苦しげな声と、身体に伝わる小さな抵抗に意識を引き戻された。
目の前の池袋が、顔を赤く染め、必死で息苦しさを訴えかけてくる。
息の上がったその様子に、有楽町は名残惜しげに唇を離した。
「は、ぁ…」
執拗な口づけから解放された池袋が、大きく口を開けて息を吸い込む。
赤みのさした目尻に、かすかにたまった涙が、なんとも艶めいて見えた。
「こ、の…馬鹿者が!」
至近距離の罵声は流石に耳が痛いけれど、長い口づけで色香をまとったその顔ではあまり迫力がない。
「少しは手加減しろ!」
「ごめん、だって久しぶりだし…」
眉を吊り上げて怒る顔を目の前に、有楽町はへらりとしまりのない笑みを浮かべた。
池袋を抱き寄せる腕の力も緩めず、二人の間には少しの隙間もない。
その間にも、有楽町はちゅっとちゅっと池袋の頬や目尻に小さく口づけていく。
顔中に落とされるキスの雨に、まだ抵抗する力を抜いていなかった池袋も、根負けしたように身体の緊張を解いた。
「まったく…」
そんな声とともに、池袋がはぁっと大きなため息をつく。
もう一度有楽町が唇へと口づけても、今度は何も文句は出なかった。
「は…、んぅ…」
何度か角度を変えて、それから、薄く開いた唇に舌を差し入れる。
奥へとひっこもうとする相手のそれを、有楽町は口づけを深めて絡め取った。
舌と舌が絡み合って、どちらのものともつかなくなった唾液が、つぅと池袋の口の端から零れおちる。
有楽町は、一度唇を離して、漏れ出たそれをぺろりと舐めとった。
それから、また、隙間を埋めるように口づける。
激しさを増すキスに、池袋の身体は徐々に後ろへ後ろへと逃げ腰になっていく。
それに有楽町は、片手を腰に、空いたもう片手を後頭部へと移動させて、がっちりと池袋の身体を抱きすくめた。
逃げ場のなくなった池袋は、一瞬だけ抗議するように薄く目を開いて、けれど、すぐにまた閉じる。
そして、自分から口を大きく開いて、有楽町を受け入れた。
「む、…ぅん」
差し出された池袋の舌の先端を、有楽町は柔らかく吸い上げる。
狭い咥内の奥へと入り込んで、なぞるように動かせば、びくりと池袋の身体が震えた。
「…ッ」
鼻にかかった吐息に、少しだけ、艶めいた嬌声が混じる。
それが嬉しくて、有楽町はさらに口づけを深めていった。
隙間なく口づけたまま、扉から何歩もないベッドまで、倒れこむように移動する。
大人の男二人分の体重を受けたベッドが、少し辛そうな音を立てた。
「は…、ふ…」
そっと口づけを解いて、有楽町は押し倒した身体を見下ろした。
白いシーツの上に、池袋の伸びた前髪が、乱れて広がっている。
普段は隠れている左目が、今は、熱に浮かされたように潤んでこちらを見ていた。
それに煽られている自身を感じながら、有楽町はその顔のすぐよこに手をつく。
ゆっくりと覆いかぶさるように身体をかがめれば、池袋が了解したように目を閉じた。
その瞼に、まるで儀式のようにゆっくりと唇を落とす。
やわらかく触れた口づけを離すと、いつのまに移動したのか、池袋の手がそっと有楽町の顔に触れていた。
肉付きの薄い平らな指の腹が、遊ぶように顔の線をなぞる。
頬を包みこむ両の手の平に導かれるまま、有楽町は池袋の唇に、もう何度目かわからないキスをした。
先程までとは違ってゆったりとした口づけを、池袋も応えるように受け入れる。
頬から滑るように移動した両の腕が、有楽町の首へかけられた。
そっと引き寄せられるような感覚を覚えた有楽町は、思わず唇を笑みの形に歪める。
「…?」
当然それに気付いた池袋は、閉じていた瞳を開いて、いぶかしげに有楽町を見る。
もの問いた気なその視線に、有楽町は苦笑しながらほんの少し身体を離した。
こうして身体に触れる時、池袋は大抵、最初の方はあまり積極的な様子を見せない。
距離なく抱きしめるのも渋るし、キスをするにも苦しそうに眉を寄せる。
それでも、だんだんと有楽町を受け入れて、吐息にも艶めいた色が混じっていって。
有楽町の首に腕が回される頃には、もうすっかり、身体も蕩けてしまっているのだ。
「だから、首に手が来ると、乗り気になったんだなーってわかるっていうかさ」
そんな風に、有楽町は笑顔で訳を説明する。
回数を重ねて池袋の癖を理解した嬉しさに、有楽町は半ば得意げだ。
だから、有楽町は気付かなかった。
自分の下で、池袋が羞恥と怒りにふるふると震えていることに。
有楽町の首に回されたままだった池袋の手が、ゆっくりとこぶしの形に握られる。
「こ、の…」
「え?」
池袋のわなないた声に、ようやく有楽町も我に返った。
けれど、それも既に遅く。
「馬鹿者が―――ッ!!」
そんな叫び声とともに、振りかぶった池袋のこぶしが、有楽町の後ろ頭に綺麗にヒットした。





「…連絡は以上だ。何か質問はあるか?」
「……」
「西武有楽町?」
いくつかの連絡事を口頭で説明した後、池袋は確認の言葉に返事を求めた。
しかし、池袋よりも大分小さい、同じ青い制服を纏った相手は、ただじっと池袋の顔を見つめている。
怪訝そうに首を傾げた池袋に、西武有楽町は慌てて口を開いた。
「西武池袋!くちびる、けがしてますっ!」
指摘された言葉に、池袋はぎくりと身体を硬くした。
よく見なければわからない程だが、池袋の唇の端がかすかに切れて血の色を見せている。
その怪我の原因を思い浮かべて、池袋は居心地の悪い思いで、そっと唇を手で覆い隠した。
「……ああ、冬は乾燥するからな、仕方あるまい」
誤魔化すような池袋の声音に、西武有楽町は疑いなく心配する言葉を口にした。
それから、あ、と小さな声をあげる。
「そういえば、有楽町も今日くちをけがしてました」
「…む」
「有楽町はころんでけがしたそうです。痛そうでした」
思いだしたのか、西武有楽町の顔がくしゃりと歪む。
確かにアレは痛いだろう、と心の中で思いながら、池袋はわざとらしく咳払いをした。
「…それで、説明は理解できたか?」
「あ、はい!だいじょうぶです!」
「では、わたしはもう行く」
はい!と元気な返事を聞きながら、池袋はくるりと背を向けた。
そして、そのまま足早にその場を立ち去る。
苛立ちまかせの歩みは、カツカツと大きな音を立てた。
西武有楽町から見えないだろう位置まで歩いて、ようやくその足をゆるめる。
「…転んだにしては、不自然だろう…」
昨夜、有楽町がにやけた顔で池袋の癖を主張してみせた時。
池袋があまりの恥ずかしさにこぶしを振り上げた結果、有楽町の顔はその衝撃で下へと落ちてきた。
有楽町の身体の下にいたのは、当然、池袋である。
直前まで深いキスをしていた姿勢のままだったから、ぶつかったのは顔と顔。
池袋の殴った衝撃そのままに、唇同士がガツンと音を立ててぶつかった。
殴った当人である池袋は唇を少し切るだけですんだが、池袋の歯にぶつかった有楽町の上唇は歯形に赤く膨れ上がり、見ているだけで痛そうだった。
「…わたしは悪くない!」
誰に言うでもなく、池袋は言い訳じみた言葉を小さく叫ぶ。
元はと言えば、恥ずかしいことを口にした有楽町が悪いのだ。
わたしは悪くない、ともう一度、心の中で呟いて、池袋は苛立ちをやり過ごす。
一歩踏み出しかけた足を、少し考えて、違う方向へと向けなおした。
向かう先は、小さな子どもに下手な言い訳をした男の所。
昨夜は言いきれなかった文句と、それから、自分で使った薬の余りを恵んでやりに。
「まったく…」
手を当てて懐の軟膏を確認しながら、池袋はハァッと大きなため息をついた。



サイト掲載:09/12/14