365日の恋人


「オレとつきあって、一年間限定で」
なんともふざげた誘い文句。
そう言った男が、その時どんな表情をしていたのか、わたしはもう覚えていない。
覚えていないけれど、きっといつも通り、ほんの少し眉尻を下げて笑っていたに違いない。
ただ付き合えと言われたなら、きっと迷うことなく断った。
けれど、「一年間」という期間限定。
そうやって条件を付け加えてくる辺り、本当にあの男らしい小賢しさだと思う。
そして、季節は春。
一年間でもっとも憂鬱な季節。
馬鹿なことを、と怒鳴ることも、誠意を持って断ることも、その時のわたしには非常に億劫で。
「一年間」という約束に、わたしはただ頷いた。



長かった春も終わり、やがて夏が来る。
普段通りの調子を取り戻したわたしに、困ったように笑いながら、それでも男は傍に居た。
こちらの反応を確かめながら、それでも遠慮なく絡められる手指。
その手を離す機会を逸したまま、季節は秋になり冬になり。
そして、また春がやって来た。
いつも通りふさぎこむわたしと、当たり前のように隣にいる男。
ぼんやりと靄のかかった頭で、約束の一年が過ぎたことを知る。
馬鹿げた約束がきちんと果たされたことに驚いていると、男が静かに口を開く気配。
ああ、これで終わる。
そう思ったわたしを、男の言葉はあっさりと裏切った。
「約束、延長しようか」



そして、まためぐる季節。
何度も何度も、繰り返される同じ台詞に、わたしもただ頷いた。
年を重ねるごとに、男の触れる場所が少しずつ増えていく。
最初は髪、そして顔、最後には足の先まで。
もう触れていない場所がなくなった頃には、心さえも大きく傾いてしまっていた。
繰り返し、繰り返し、やって来る春。
この季節を、一人どうやってやり過ごしていたのか、もう思い出せない。
それに気付いてしまった時、喉がひりつく程の恐怖を感じた。
あまりにも頼りない、この約束。
それが終了して、また一人投げ出された時、わたしは一体どうなってしまうのか。
見覚えのある黒い闇が、わたしの視界を埋め尽くした。



「約束延長しよう」
もう何度目ともしれない言葉が、やわらかく耳に響く。
心のどこかでひどく安堵しているのを感じながら、わたしは目を瞑った。
ただほんの少し首を縦に振ればいい、そうすればまた、同じ一年がやって来る。
けれど。
「……有楽町」
名を呼んで、静かに顔を上げる。
今までにないわたしの行動に、対峙した相手の目は大きく見開かれた。
「有楽町、」
ただ名を呼ぶだけで、ひどく息が苦しい。
続く言葉が喉元で焼けついたように、声が出ない。
苛立ちまかせに頭を振ってうつむいたわたしの手を、そっと男が掴んだ。
「ゆう、」
「オレ、お前が好きだよ」
ああ。
なんてずるい男なのだろう。
この瞬間に、やっと、その言葉を言うなんて。
そう詰ってやりたいのに、掴まれた手から伝わる震えに何も言えなくなる。
約束の始まったあの瞬間も、実は、この手は震えていたのだろうか。
「有楽町」
今から思えば。
わたしはもうあの時すでに、この男に絆されてしまっていたのだと思う。
こんな季節に隣に居ることを、許してしまう程度には。
「約束を、してくれ」
永遠とは言えないけれど、延長のない約束を。
そう言って、ゆっくりと顔を上げる。
こちらを見つめる男の顔が、泣きそうな笑顔に歪んだ。


サイト掲載:09/10/24