きみと夏の日
夏の暑さというものをみくびっていたかもしれない。
後から後から噴き出てくる汗を、無駄と知りつつ手の甲で拭いながら、有楽町はぼんやりと思った。
雨もなく、風もなく、本日の天気は快晴。
遅延や事故の知らせもなく、午前中の業務は滞りなく終わった。
いつもよりもゆったりと取れた休み時間。
せっかくだからと、たまには外で食事をしようと考えたのが間違いだったのだ。
地上に出た有楽町にまず襲いかかったのは、異常な熱気。
遠慮なしに降りかかる日の光は、地下に慣れた目に毒以外の何物でもなかった。
思わず後ずさりをしそうになっても、じわじわと足元に感じる焼け焦げたアスファルトの熱さに、逃げ場所などどこにもないのだ、と思い知らされる。
結局、日差しの中を数分歩いた有楽町は、目に付いたコンビニへと駆け込んだ。
コンビニにあるラインナップなら、わざわざ地上へ出なくても手に入る。
それでも、蒸し風呂のように暑い外を、まして何の目当ての店もなく彷徨うのには、これ以上耐えられそうになかったのだ。
かくして、コンビニの袋をガサガサと言わせながら、有楽町はいつも通り自身の休憩室の扉を開くことになった。
「あーあ…」
気まぐれなんて、起こさなければよかった。
ただただ自分のヒットポイントを削るだけだった選択に、思わずため息が出る。
冷房の利いた地下へと戻ってきても、太陽にさらされた身体の熱はなかなかひかない。
シャツの襟首や背中が汗でぺたりと貼りつく感覚が、気持ち悪くて仕方なかった。
「替えのシャツ、持ってくればよかったなぁ…」
せめてもと、きっちりと締められた襟元に手をやり、ほんの少しくつろげる。
一瞬考えてから、まあいいか、とラインカラーのネクタイを一気に引き抜いた。
どうせ、今は一人きりで見ている者は誰もいない。
業務に戻る前に戻せばいい、と、シャツの前のボタンも開けてしまう。
最後のボタンまで開けて、パタパタと風を送り込むように扇げば、シャツの中にこもった熱気が一気に逃げていった。
肌に感じる冷たい空気に、有楽町がほっと息をついたその時。
「おい、有楽町」
ガチャリ、と扉が開くのと、聞き慣れた声が響くのはほぼ同時だった。
「あ」
思わず、間抜けな声が漏れる。
「………何をしている」
入って来た相手は突然の訪問に詫びをいれるでもなく、不機嫌そうにそう言った。
前髪に隠された片目もきっと同じだろうと思えるくらい、向けられた視線は冷たい。
「悪い、みっともないとこ見せたな」
ごまかすように笑いながら、慌てて派手に開いた前を掻き合わせる。
ノックもなく入って来た相手にとりあえず謝ってしまう自分が、ほんの少し情けない。
「で、何の用?池袋」
ひとまずボタンを上まで留めて、部屋の入り口に立つ相手に話を促す。
休憩に入っている事が多い昼時に、池袋がこうして訪ねてくるのは珍しい。
緊急?と付け加えれば、池袋は珍しく言葉を濁した。
「いや…別に緊急ではない…」
「…そう?」
いつも人の話を聞かずに自分の話をまくしたてる池袋にしては珍しい。
不思議に思いながらも、有楽町はひとまず手近にあった椅子をすすめた。
「まあ、座れば?大した物ないけど茶くらいだすよ」
そう言いながら、備え付けの冷蔵庫を開けてパックに入った麦茶を取り出す。
コップを二つ出して注ごうとすると、すっと伸びてきた手に遮られた。
「いらん」
営団の施しなど受けん!と、偉そうに言い切られてしまう。
いつも通りの態度に、ほっとするような、呆れるような気持ちになりながら、有楽町は特に気にするでもなく、はいはい、と自分の分にだけ麦茶を注いだ。
「あー!生き返る!」
なみなみに注いだ麦茶を一気にあおって、盛大に息を吐く。
水分を失った身体に、キンキンに冷えた麦茶がしみた。
「気まぐれで外に食べに出ようとしたんだけどさ、もう暑くてまいったよ。最近、昼時に外出ることないから忘れてた」
「ふん、この程度の暑さで何を言うか、これだからひ弱な営団は!」
いつまでも続きそうなお決まりの文句に、有楽町は苦笑いしながら、コンビニの袋から買ってきたものを取り出していく。
実際は、風通しのいい半袖シャツの有楽町よりも、普段通り青いコートを着込んだ池袋の方が体感温度は高いに違いない。
その制服で地上での業務をこなしている西武の面々に比べれば、自分がひ弱だと言われても文句は言えなかった。
毎年のことではあるが、その制服で倒れたりしないのだろうか。
そう思ってよくよく見てみれば、池袋の額のあたりにうっすらと汗が滲んでいた。
以前、パンツ一枚なところに遭遇したこともあるし、暑いことは暑いのだろう。
「その制服、この暑さじゃ脱ぎたくならないか?」
「馬鹿者!西武は暑さになど負けん!」
ものすごい勢いで怒鳴りかかられて、有楽町は己の失敗を悟った。
この身にまとう青は会長より賜った西武の誇りであって〜!と、永遠と続きそうな西武賛歌。
垂れ流される電波にうんざりしながらも、半分慣れてしまっている自分もいて、何とも複雑な気分になる。
「大体にして!」
ビシリ、と池袋の指が有楽町の目の前にまで突きつけられた。
鼻先すぐそばで止まったそれに、思わず身を固くする。
「服装の乱れは心の乱れ!いついかなる時もお客様に見られて恥ずかしくない服装でいるべきだとは思わんか」
「うっ…」
どうだ、と言わんばかりの正論に、有楽町は返す言葉もなく黙り込んだ。
誰も見ていないとは言え、流石にやりすぎだったかという自覚があるだけに、何も言い返せない。
まあ、そんなことを言ったらりんかいあたりはどうなるんだ、とも思うけれど。
「制服は正しく着こなしてこそ、本来の形というもの…きさまもいい加減直したらどうだ」
「へ?」
言われて、思わず自分の姿を見直してみる。
池袋が来た時に、シャツの前は首元までしっかり留めたものの、引き抜いたネクタイはそのままだった。
「あー…まだ一応休憩中だし…」
見られて恥ずかしい格好ではないし、ネクタイくらいはまだ締めなくてもいいだろう、と曖昧に言葉を濁してみる。
しかし、どうやらそれでは許されないらしい。
「ならん!いくら休憩室とはいえ、他社路線が来ることはあるだろう。西武の乗り入れ先が軽く見られては困る」
椅子にかけてあったネクタイを、立ちあがった池袋が手に取る。
こちらに渡してくるのかと思いきや、いきなり触れられる距離まで接近してきた相手に、有楽町は慌てて後ずさった。
「え!ちょっ!」
「逃げるな、結べぬだろう」
「いや、自分でできるから!!」
「ええい、うるさい!」
襟元にかけられたネクタイを、ぎゅっと引っ張られる。
ただでさえ近い距離がさらに近くなって、有楽町の鼓動が大きく跳ねた。
「すぐ終わる。少し黙っていろ」
首をほんの少しかがめて、手元のネクタイから目を離さないまま、池袋はそう言った。
仕方なしに有楽町は、顔を上向けてじっと身体を固くする。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「………あの」
「……………」
「池袋もしかして、ネクタイにが」
「うるさい、黙れ」
ぴしゃり、と言い放たれた言葉に、有楽町は再び黙る。
自分の首元で試行錯誤が行われているネクタイは、何故か、固結びのような状態になったり、細い方の端が伸びすぎたりと、何ともおかしな状態になっていた。
西武の制服はネクタイではないし、池袋が結べなくてもおかしくはない。
けれど、ここまでおかしくなってしまうのは、少なからず本人が不器用なのもあるのだろう。
意外な一面に、有楽町は笑いをこらえきれずに小さく噴出した。
「ぷっ!」
「…なっ!笑うな!」
「いや、うん、ごめ…っ」
小刻みに震える有楽町に、池袋は腹立たしそうに顔を歪めながら、「昔はもっとちゃんと…っ」とか、「もう少しで思い出す…っ」とか、口の中で小さくぼやいていた。
「ごめんごめん、お願いします」
「………ふん」
笑いが収まった有楽町が謝って、池袋はぐるぐるに絡まったネクタイにもう一度手を伸ばした。
シュッと解いたネクタイを、最初から結びなおす。
黙って手元に集中する池袋は真剣そのものだ。
有楽町もしばらくそれを黙って見ていたが、じっとしていると忘れていた空腹感が襲ってきた。
買ってきたまま、テーブルに放置された昼食へと目をやる。
特に痛むようなものではないからこのままでも大丈夫だけれど、腹が減るのはどうにもならない。
そう言えば、と有楽町は池袋に視線を戻した。
「そういや、お前は昼飯もう食ったの?」
「いや…」
結び目を真剣に見つめる池袋の返事は、どこか上の空だった。
こうしてメトロの休憩室に長居しているくらいなのだから、池袋も今は休憩中なのだろう。
仕事中に、業務以外のことで長く留まるような男ではない。
かといって、緊急の仕事があったわけでもないというから、本当に何の用事で来たのだろう。
有楽町は、宙へと視線を移して考え込む。
その間に、首元のネクタイは何とか見られる形へと整えられていった。
「よしでき…っ!」
「あ!」
嬉しそうな声音で池袋が言おうとした言葉を、有楽町があげた声が遮る。
「なんだ?」
「あっ、いや、えーと…」
やっとできたところに水を差されて、池袋は不愉快そうに顔をしかめた。
無意識に漏らしてしまった声を有楽町が誤魔化そうと言葉を濁せば、その眉間の皺はさらに深くなる。
「言うなら言わんか!」
至近距離の怒鳴り声に、有楽町は慌てて「言います!言います!」と言葉を続けた。
池袋がここにいる理由。
何となく、もしかしたら、ではあるけれど。
「えっと…もしかして、池袋、オレを昼飯誘いに来たのかなー…って」
言いながら、恐る恐る池袋の表情をうかがう。
少しも顔色を変えない池袋に、ああ、違ったか、と有楽町は心の中で思った。
やっぱりな、と思う気持ちと、少し残念に思う気持ちとが混ざり合う。
「あはは、やっぱ違うよね〜…って、うわっ!」
場を和ませようと笑った有楽町のネクタイを、池袋が唐突に引っ張った。
バランスを崩してあやうく前につんのめりそうになる。
ネクタイの結び目がぎゅっと絞られて、首がおそろしく圧迫された。
「ちょっ!池袋!くるし…っ!」
「帰る!!」
有楽町の非難の声を無視して、池袋は乱暴に青いコートを翻した。
え?と有楽町が思う間もなく、大股でドアに向かって歩いていく。
「い、池袋、待ってっ!」
我に返った有楽町は、慌てて池袋の腕を掴んで引きとめた。
こちらを意地でも振り向こうとしない相手の両耳は、真っ赤に染まっている。
「あ、あのさ!」
「なんだ!!」
「夜は、空いてる?」
有楽町の言葉に、は?と池袋は振り向いた。
こちらを見た相手の瞳に、有楽町はにこっと笑いかける。
「今日の夜、一緒に飯食いにいこう?」
「な、んで、わたしと貴様が…」
「じゃあ、ネクタイのお礼ってことで。ねっ?」
半ば必死に言葉を重ねる有楽町に、池袋は唇を引き結んで黙り込んだ。
数秒間の沈黙の後、ぼそり、と池袋が口を開く。
聞き取れなかった有楽町は、「え?」と聞き返した。
「……仕方ないから、行ってやろう」
小さく小さく呟かれた声を、今度は有楽町も聞き逃さなかった。
「誤解するな!借りを作ったままでは貴様があまりに哀れだと思うから付き合ってやるのであって!」
「うんうん、わかってる、わかってます」
「…っ!いい加減離せ!わたしは業務に戻る!」
掴んだままだった腕を振り払われて、有楽町は、あ、と声を漏らした。
自由になった池袋は、今度こそこの部屋を去ろうとドアノブに手をかける。
「池袋!」
「……なんだ」
思わず引きとめる声をあげた有楽町に、池袋は意外にも立ち止った。
けれど、振り返りはしないその背中に、有楽町は静かに笑いかける。
「約束、な?」
確かめるように言った言葉に、池袋はただ「フンッ」と鼻を鳴らした。
そのまま、振り返ることなく、扉の向こうへと消えていく。
池袋のいなくなった休憩室で、有楽町はその場にへなへなとしゃがみこんだ。
はぁーーーっと長い長い息を吐く。
しばらくそのままの姿勢で目を瞑っていたが、耳元で響く腕時計のカチッカチッという音に現実に引き戻された。
チラッと目をやってみれば、休憩時間終了までもう何分もない。
「やばっ!」
慌てて立ちあがって、テーブルの上を片付ける。
昼食を食いっぱぐれてしまったせいで、使ったのはコップくらいのものだ。
コップを持ち上げて流し台へと持っていく。
慌てて部屋を飛び出ようとした有楽町は、しかし、流し台の前で固まってしまった。
「………あー…」
脱力したような声を漏らして、その場にもう一度しゃがみこんでしまう。
「これじゃあ、お客様の前に出れないよ…」
流し台に設置された、鈍く反射する四角い鏡。
そこに映っていたのは、変に細く結ばれたネクタイをした、幸せそうににやけた男の顔だった。