図式にすれば、それはひどく簡単なこと

その名前を俺は知らない。

ルークはじっと目の前の存在を見つめ続けていた。
今日の同室者は、ベットに腰掛けているこちらに背を向けるように宿の安物机に向かい、もうずいぶんと長くそのままだ。
書きものをする腕の動きにあわせて、背に流れる金茶の髪が揺れている。
二人っきりの部屋に、ペンが紙を走る音だけが規則的に響いていた。
自分はこの男について何を知っているだろう、とルークはぼんやりと思った。
名前はジェイド・カーティス。
マルクト軍人で、地位は大佐。
頭が切れて、譜術と槍のエキスパート。
だけど、うさんくさい笑顔を浮かべて人を馬鹿にするし、嫌味で陰険で―――
「ルーク」
はっとルークが顔を上げると、目の前に今の今まで思い浮かべていた顔。
いつもの嫌味な笑みもなく、不審な様子に眉を寄せるでもなく、ただただ無表情で。
「体調でも悪いのですか?」
そう言って、座っているルークに視線を合わせようと屈む。
脈をとろうと、その長い指がルークの腕に伸びた。
ああ。
嫌味で陰険で、なのに、こんなにもやさしい。
伏目がちに脈をとるジェイドの顔を見つめながら、ルークは泣きそうに思った。
表には出さないくせに、確かにこちらに向けられるやさしさが嬉しくて、それから、ひどく胸に痛い。
「……脈は正常ですね。それでも、疲れているなら早く寝てしまいなさ…っ!」
触れそうなほどに近い距離で、赤い瞳が驚きに見開かれている。
その視線をさえぎる薄いレンズさえ、今は邪魔で。
耳に心地よい低い声をつむぐその唇に、触れたい、と思った。
そう思ったら、もう、我慢はできなくて。
ルークはただ衝動のままに、ジェイドに口付けた。
ちゅ…っと小さな音をたてて、やわらかな感触とかすかな熱が伝わってくる。
胸の中にあった痛みや、正体のわからない何かが、触れ合った場所からふっと溶けていく気がして、ひどく心地よかった。
ゆっくりと唇を離すと、ただ静かにお互いの視線が絡んだ。
「……何故ですか?」
「……え?」
「何故、私にキスするんです?」
問われた内容が、ルークの霞がかったように動きの鈍い頭に、しみこんでいく。
キス、という言葉に、今更ながらに自分のしたことを妙に実感する。
キス、そう、キス。
自分の行動を理解した途端、急速に頭に血がのぼった。
「ごっ、ごめん!」
ばっと立ち上がり、逃げるようにドアへと向かう。
ああ、本当にどうしてあんなことを、と羞恥に顔が赤く染まる。
ドアノブに手をかけた瞬間、ぐいっとその手を引っ張られた。
「え!?」
バランスを崩したルークの身体はそのままジェイドの胸へと引き寄せられる。
自然とジェイドに抱きしめられるような格好になって、ルークはますます赤くなった。
「ジェ、ジェイド!!何すんだよ!?」
「何故でしょう?」
「はあ!?」
ルークがいくら暴れても、ジェイドの腕の拘束は少しも緩む気配がない。
混乱をきわめてわめくようなルークと対照的に、ジェイドはただただ落ち着いている。
そんな様子に苛立ち、ルークは声を荒げて、自分を抱きすくめる男を見上げた。
しかし、
「抱きしめたい、と思ったから、そうしてみました」
からかうでもなく、わるびれるでもなく、ただただ素直に伝えられる言葉。
まっすぐに向けられる視線に、ルークは思わず暴れるのもやめ、ぽかんと口をあけた。
「あなたは?」
「え?」
「あなたは、どうしてですか?」
あらためて尋ねられる問いに、ルークは思わず答えていた。
「キスしたい、と思ったから…」
「それは、何故?」
「何故って…」
容赦なく重ねられる疑問に、ルークの頭が答を求めて動き出す。
目の前の男のことをただ知りたいと、感じたいと思った。
痛いほどに、触れたいと、そう願ってしまった。
それは、どうして?
その理由は、何?
「それは…」
言葉をきって、じっと自分を見つめるルークに、ジェイドはふっと微笑む。
その笑みに、きゅっと喉の奥が締め付けられるような何かを感じて、ルークは息を呑んだ。
胸のうちに確かに存在する、この衝動の名前はいったい何。
もう一度キスしたら、それがわかるだろうか、とルークは思う。
数瞬の沈黙の後、どちらからともなく、答を確かめるようにまた唇が重なった。



07/8/3
お題配布元/snivelly