偽りの生む真実
石畳の階段をゆっくりと下りる足音が、地下牢に響く。
カツン、カツン、と軽いその音は、罪人を捕らえる為の暗く重苦しいこの場所にまったくそぐわない、どこか楽しげなものだ。
ぎぃぃいっと耳障りな音をたてて、地下牢の奥の奥、危険な重罪人専用の牢へと続く扉が開く。
自ら持った燭台の灯りに照らされて、中へと入ってきた人物がぼぉっと闇に浮かび上がった。
まず目に入るのは、背に流れる見事な赤毛。
毛先に向かって薄く茜色へと変化するそれは、腰よりも下とかなりの長さがありながらも、よく手入れされつやつやと輝いている。
鮮やかなその色と対象的な翠色をしたガラス球のような瞳は、どこか斜に構えたような、からかうような目つきをしていた。
だぶだぶとだらしなく着こなした、けれど、上等なものだと知れる衣服をずるずると引きずってその少年はゆっくりと牢へと近付く。
手に持った灯りをすいと掲げて、鉄格子の向こうを照らした。
にやりと、口もとを歪めて少年は言う。
「ごきげんよう、死霊使い」
鉄格子の向こう、灯りに照らされてなお暗い闇の中で影が動いた。
「…またあなたですか」
感情の読めない、低く落ち着いた男の声が響く。
返ってきた返事に、少年はますます楽しげに笑った。
「ああ、来たぜ。今日もまたずいぶんとひどいな」
あんたもずいぶんしぶとい、と言う視線の先には、手枷と足枷をはめられ粗末な囚人服を着た一人の男がいた。
肩までの金茶の髪と不気味なまでに赤い瞳の、美しい男である。
しかし、裾から覗く素肌は赤黒く腫れ、服には乾いた血がこびりつき、目元に申し訳程度にひっかかった眼鏡はがたがたにひしゃげ用をなしていない。
一目で暴行の後とわかるひどい姿でありながら、男は冷静にどこか冷めた目で少年を見返した。
「何をしても無駄だというのに、そちら側も十分しつこいですよ」
「いい加減、マルクトの情報を吐けばいいじゃねーか。そうすりゃ、開放されるだろ」
「ええ、この牢からはでれるでしょうね。すでに用済みの死体として」
「はッ違いねぇ!!」
少年はこの上なくおもしろい冗談を聞いたかのようにケラケラと笑う。
二人きりの地下牢にその声は病的に響いた。
男は、そんな少年をただ黙って見つめている。
敗残の将として敵国キムラスカの捕虜となって、男はキムラスカ王城の地下奥深くにある特別牢に捕らえられた。
それは男がマルクト皇帝の懐刀とまで呼ばれる側近であること、そして、死霊使いの二つ名で畏怖される、軍人として、学者としての能力のせいだろう。
連日にわたる裏切りの交渉にも首を振らず、拷問にも屈しない。
そんな男のもとに、赤い髪の少年はある日突然ふらりとやってきた。
気まぐれにやってきては、皮肉めいた口調で一方的に中身のない会話を繰り広げる。
見事な赤い髪と翠の瞳、そして、王城に頻繁に出入りできることから、少年が誰であるのかは、政治の中枢にいた男には簡単に推測できた。
「…いつもいつも、何が楽しくてこんな所に来るんです?」
「さあて、なんでだろうな?」
男の質問に、にやにやと笑って少年は答える。
人をからかうようなその様子はひどく神経にさわるものではあったが、少年の訪問を何度も受けている男はただ眉を軽くひそめるだけにとどめた。
「…くくっ…楽しいじゃねーか。音に聞こえるマルクトの死霊使い殿がこんな地下牢に閉じ込められてるなんて。どうして逃げ出さない?叔父上も大臣どもも、いつおまえが牢を破って襲いかかって来るんじゃねーかっておびえてるぜ?」
「封印術までかけておいて何をおっしゃるのやら…心配せずとも、こうも二重三重に譜術封じをかけられれば流石に脱走はできませんよ」
男の言う通り、手枷足枷だけではなく牢全体に張り巡らされた、特殊な譜術結界によって地下牢の中は簡単な譜術一つ使えなっている。
平静を装ってはいるが、肉体的な束縛と譜術による束縛で二重に拘束されている男の負担はかなり大きいだろう。
だが、
「嘘だな」
笑いを含んだ少年の口調がすっと一変した。
感情の波を感じさせない、怖いほどに凪いだ瞳で男をねめつけ言う。
「おまえは、逃げようと思えば逃げられる。」
「・・・・・」
「どうして逃げない」
突刺すような少年の視線を、男は目をそらすでもなくただただ受け止める。
無言のまま顔色も変えない男に、少年はちっと舌打ちして背を向けた。
ふわり、と裾を翻し、外へと通じる扉に向かう。
「あなたはいつも私に同じことを問いますが」
よく通る男の声が、扉にかかった少年の手を止める。
ゆっくりと少年は男へと振り返って。
鉄格子の向こう薄闇から少年を見つめる一対の血の色を、見た。
「それは、あなた自身への問いなのではないですか」
―――王城という牢獄に捕らわれたあなた自身への―――
「――――ッッ!!」
男の言葉の余韻が消えるよりも先に、ガシャンッとガラスの割れる耳障りな音がたつ。
少年が振り上げた手持ちの灯りが、牢の中、男の顔のすぐ横を通って壁へと叩きつけられたが、男は視線を少年に向けたまま微動だにしなかった。
深い闇に閉ざされた牢に響くのは、怒りに震えた少年の荒い息づかいのみ。
くそっと小さく呟いて、あたりちらすように音を立てながら、乱暴に扉を開け外へと出て行く。
カンッカンッカンッと苛立ちの隠せない足音が、だんだんと遠くなっていった。
「まったく…」
溜息をつきながらひしゃげた眼鏡をかけなおす仕草をして、じゃらりとなった手枷の音に、男はまた溜息をついた。
噂に聞いた、王城で飼い殺しにされているというキムラスカの最終兵器。
敵国の捕虜に「何故逃げない」と同じ問いを繰り返す、赤い髪に翠の瞳の少年。
「逃げたいのは、あなたでしょう。ルーク・フォン・ファブレ」
男の静かな問いが、ポツリと落ちる。
光の射さない牢獄に、問いに答える声はなかった。
07/2/7