自覚する前に狂いそうだった

一言で言うなら、気に食わない、これにつきる。
長年の隣人の話だ。
アムールの国なんてふざけたことをぬかしながら、やっていることはただの変態。
ところかまわず脱ぎたがり、誰かれかまわず口説き倒す。
最低最悪低俗な変態ワイン野郎だ。
初めて出会ったのは、俺がまだチビだった、遠い遠い昔。
それからずっと、顔を合わせれば喧嘩、喧嘩、喧嘩の繰り返し。
そんなやつとなんだかんだでつきあいがあるのは、一重に家が隣であるという動かしがたい事実のせいでしかない。
そうでなければ、あんなやつ誰が相手にしてやるものか。
迷惑な隣人、腐れ縁、喧嘩相手、運命共同国。
一部納得いかない表現もあるが、俺とあいつの関係はそういうもの。
なのに。

『・・・・・お前、俺のことどう思ってるわけ?』

あいつの、言葉。
耳に届いた瞬間、頭が真っ白になった。
俺があいつをどう思ってるか。
言ってやればよかったんだ。
迷惑な隣人で、腐れ縁で、喧嘩相手で。
だけど、あいつの顔を見たら、どうしてだか言葉が出なかった。
ふざけたニヤニヤ笑いを浮かべて、こちらをからかうふざけた野郎、それがあいつ。
なのに、あの時は、何の表情を浮かべることもなく、真顔で、ただただこちらを見つめていて。
怖い、と思った。
まっすぐにこちらを見つめる瞳に、見透かされそうだと、そう思った。
「・・・・・何を?」
ぽつり、と口の中で小さく呟く。
もとから、ここは自分の家で、それに答える声はない。
一体、何を?
それは・・・・・

ピンポーン

家中に響く呼び鈴の音。
びくり、と身体が震え、思考が霧散する。
続いて響く配達員の声に、ふぅとため息をつき立ち上がった。
長く考え事をしていたせいで、頭が重い。
あと少しで、何かがわかりそうなそんな気もした。
邪魔されてよかったような、悪かったような。
ぐちゃぐちゃとした気持ちのまま、扉を開け、配達員と顔を合わせる。
ニコニコと愛想のいい配達員だったが、対応がどうしても不機嫌になった。
一言も会話もせず、おざなりにサイン。
そんな俺の態度にも関わらず、配達員は変わらない笑顔で荷物を手渡した。
「・・・・・?」
荷物は、薄っぺらな一枚の封筒。
こんな風に配達員を介さずとも、ただの郵便で十分なほどの。
もちろん、仕事関係の書類でこういった形で送られてくるものもある。
しかし、それにしては、これはあまりに薄い。
いぶかしげに封筒を見る俺を気にせず、配達員はにこやかに一礼し帰っていった。
ひとまず扉を閉め、くるりと封筒を裏返す。
リターンアドレスはおろか、差出人の名前すらない。
真っ白な封筒に、古風にも赤い蝋に薔薇を刻印した封が存在を主張している。
頭をひねっても、答えが出るわけでもない。
封の間に指を入れ、少々乱暴に開封する。
ぺりっと小さな音をたてて、薔薇の刻印はそのままの形ではがれた。
「あ・・・・・」
手が、止まる。
封筒の中、開いた隙間から覗く文字。
聞かなくてもわかる、どこか楽しげで踊るような、あいつの癖。
鼓動がうるさい。
あの時と同じ、頭の中が真っ白になる感覚。
これを読んでしまったら、きっと元には戻れない。
本能がそう告げていた。

『・・・・・お前、俺のことどう思ってるわけ』

「・・・・・っ!」
衝動的に封を閉める。
ぎゅうっと蝋の封印を指で押し付けた。
けれど、乾いた蝋は案外にもろく。
力に耐え切れず、ぼろりと崩れた。
「あ・・・っ!」
指につく赤い欠片。
印を失った封筒は、紙のそりに従って開いていく。
そして、今度こそ、目に入る言葉。
白い便箋にただ一言。

『Je t'aime.』

嫌いだ、と叫べばよかった。
お前なんか大嫌いだ、といつものように。
そうすれば、きっと気づかれずにすんだのに。
気づかずにすんだのに。
「ばかやろう・・・・・」
霞む文字の上、赤い欠片がぱらぱらと落ちていく。
封印は壊れてしまった。
もう、元には戻れない。


08/2/21
沁々三十題.09 お題配布元/群青三メートル手前