右手首から先の欲望

「腹減った」
気に入りのソファーにゆったりと身を預けた大英帝国さまは、読んでいた新聞を無造作に横においやり、不機嫌そうに言った。
イギリスの家、イギリスのキッチンで、現在進行形でイギリスのために料理を作っている俺が、ひくり、と口元をゆがめたとしても、まあ仕方ないことだろう。
誰のために作ってやってると思ってるんだ、とか皮肉を言ってやってもいいのだけれど、怒りの沸点の低いこいつが、じゃあ自分で作るとか言いだしてはたまらない。
手料理を振舞おうとするイギリスを、必死で押し留めた努力が水の泡になってしまう。
かといって、メインの肉料理はまだまだ煮込み途中だし、グラタンスープはオーブンの中、前菜のサラダは盛り付けが終わっていない。
仕方なしに俺は、イギリスの前に無言で桃を置いてやった。
ついでに皿とナイフも出してやるあたり、俺ってなんてやさしい。
熟して淡く色づいた桃は、後でジュレにでもしようかと思っていたものだが、まあ仕方ないと諦めることにした。
「・・・・・」
俺の出してやった桃を前にイギリスは不満げに眉を寄せたが、それを無視して作業に戻る。
なんてったってフランス料理の命はソースなのだ。
焦げ付かせてしまってはたまらない。
キッチンに戻った俺に、イギリスは諦めたのか目の前の桃へ手をのばした。
小型のナイフを器用に操り、桃の薄い皮を剥いでいく。
手先は器用なくせに、どうして料理をさせるとああまで壊滅的なのか、長年不思議で仕方ない。
小首をかしげながら、自信作のソースの味を見る。
うん、いい味、流石俺。
鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜ、横目にイギリスの様子を見た。
イギリスの手の中ですっかり丸裸となった桃は、うっすらと黄色味を帯びた白い肌にたっぷりと果汁を滴らせている。
ああ、あれでデゼールを作ればさぞうまかっただろうに、と未練がましく思っていると、イギリスはあろうことかそのまま桃に噛り付いた。
おいおいそんなワイルドな。
一応紳士名乗ってるくせに、どんだけ腹減ってたのよ。
驚くというより呆れた心地で見ている俺の視線も気にせず、イギリスは桃に夢中だ。
桃に口が寄せられる度、じゅる…っと水気の多い音がたつ。
手指やら口元やらも溢れた果汁に濡れ、つやつやと光っていて、なんというか。
「目の毒・・・・・」
溜息まじりに心の声が思わずでた。
一応の空腹が満たされたイギリスは、俺の声に気づいたらしい。
すっかり果汁にまみれた手を気にしながら、こちらに視線を向けてくる。
「なんだお前も食うか?」
甘いぞ、と珍しく邪気のない笑みを浮かべて、もう一つの桃を手に取る。
男にしては細い手首に伝う透明な汁を、赤い舌がぺろりと舐め取った。

カチリ

現実と頭の中の両方で、スイッチの切り替わる音がする。
現実は、俺がコンロのつまみを回して火を止めた音。
そして頭の中は。
理性の箍が外れる音。
「は…?フラ…」
料理を中断して自分の方へやってくる俺に、イギリスが不審そうに視線を上げる。
気にせず、べとべとに汚れた右手首をとり口付けた。
「ちょ…っ!おまえ…っ!」
反射的に振り上げられた左手も同じように掴んで、暴れようとする身体ごとソファーに押さえつける。
拘束の手は緩めずに服の袖ぎりぎりから手指までをゆっくりと熱い舌でなぞった。
濃い桃の香りとともに、甘い味が口の中に広がっていく。
ぴくり、とイギリスの指の先が痙攣した。
その指をぱくりと口に含んで舐めてやれば、ちゅ…っと湿った音。
「・・・・・っ」
指と指の間に執拗に舌を這わせながら、下からイギリスを覗き込んでやれば、かぁっと一瞬で赤く染まる。
「甘い、な」
にぃっと笑って言ってやると、思いっきり睨みつけられた。
いや、涙目でそんな顔されても、ねえ。
ケタケタと声にだして笑うと、イギリスの視線がますます剣呑になっていく。
こわいこわい、嘘、全然こわくないけど。
「……フランス」
地を這うようなイギリスの声にまだ笑いながら、ん?と答える。
瞬間、緩んでいた拘束を振りほどいて、イギリスががばっと起き上がった。
やばっと思う間もなく、すぐそこにイギリスの顔。
そして。
口元でちゅっと軽い音がした。
「え…?」
ぺろりと軽く舐められた感触とともに、イギリスの顔が離れていく。
何が起こったのか把握できていない俺を、イギリスはおもしろそうに見ていた。
「ここ」
言いながら自分の口の端をとんとんと指差す。
「ソースついてた」
してやったり、とイギリスは勝ち誇ったように笑った。
ああ、そういえばさっき味見したっけ、とぼんやり思いながら、腹の中で凶悪な感情が渦巻いてるのを感じる。
ああもう、なんで、こいつ、こんなかわいいの。
「おまえのせいだからな」
「は?」
「手加減してやれないってこと」
「な…んっ!」
反論を返そうとするうるさい口は塞いでしまうに限る。
噛み付くようにキスした唇は、手指よりもずっと甘かった。



*Hさんより頂いたイメージイラストはこちら!*



07/9/1
お題配布元:遠吠え