伸ばした手が空を切るのを、恐れていた。

眠れない。
ベッドに投げ出した身体は気だるく重いのに、意識は依然としてしっかりと残っている。
身体は眠りを欲している。
それなのに、眠りが訪れないのは、ここが自分の家ではないからだ。
大西洋を隔てた、遠い、かつての新大陸。
久しく訪れることのなかったこの家に何故だか滞在している自分。
だから、こんなに心がざわつく。
家全体に自然と染み付いたあいつの匂いに、壁一枚隔てた向こうにあいつがいるという事実に、勘違いをしそうになる。
何でもない理由で呼び出して、わざわざ自宅に泊めるのは何故か、とか。
無意識に向けてしまう俺の視線が、すぐに受け止められるのは何故か、とか。
そんなもの浅ましい期待が生み出した勘違いでしかありえない。
そう、途方もない勘違いでしか。
なのに。
喜びと不安とがないまぜになった心は、それでもなお、望むのだ。
あの笑顔が、あの視線が、全て俺のためであればいいと。
そして同時に、どこからか聞こえてくる声が、凪を求める心に波紋を起こす。

『目をそらせ』

『ごまかすんだ』

『求めては、いけない』

「…っ!」
姿のない声の主を振り払うように、手を上げた。
何もない空を切った自分の手の向こうに、見慣れない天井。
「そ、うだ…」
無意識にだしたかすれ声の、あまりの弱弱しさに自嘲する。
あいつが俺から離れていった時の痛みを忘れたのか。
焼け付くような痛みは今はなくとも、直ることのない傷は依然残っている。
「あいつは、俺なんて…」
自分自身に言い聞かせているはずなのに、まるでそれを拒否するかのように消え入る声。
否定をする声と、期待する声と、同じ自分の声が頭の中でいくつも反響する。
叫びだしたいほどうるさい頭に、握りしめたこぶしを押しつけた。

『イギリス』

脳裏に、ほんの少し前に見たあいつの顔。
お願いだから、期待をさせないでくれ。
俺はもう、傷つきたくないんだ。
伸ばした指先が、何もつかめないのは、もう。

『イギリス、好きだよ』

やめてくれ。
甘やかな期待と底の見えない絶望に押しつぶされそうだ。

07/9/23
沁々三十題.27 お題配布元/群青三メートル手前